「普通」に縛られない―価値観を見直して心が軽くなった話

最近、自分を振り返って深く考える習慣がついた中で、あるテーマについて考え続けていました。

それは「価値観」についてです。

ふとしたときに、なんとなく楽しめない、どこか疲れる、生きづらさをぼんやりと感じることがありました。

そして、それは自分の「歪んだ価値観」のせいかもしれない、そんなふうに考えて、どうにか楽になる方法を探していたのです。

しかし、価値観というものはすぐに変えられるものではなく、スッキリする答えにはなかなかたどり着けずに悶々とするばかりでした。

そんな中、ある日ふと思いついた仮説があり、少し気持ちが軽くなるのを感じました。

私が考えたのは、現代社会の価値観の成り立ちは「男性社会+女性の視点(少々)+個性」ではないか、ということです。

今回は、この仮説をもとに自分の考察と、心が軽くなった理由について綴っていきたいと思います。

「価値観」について考え始めたきっかけ

社会人になってから、どこかネガティブな感情が増えたように感じる。以前は、もう少しポジティブに考えていたはずなのに、今ではその感情が支配的になり、ポジティブな気持ちを感じることが少なくなった。

自分ではその原因がうまく説明できなかったが、ふと気づいたことがある。

それは、常に「自分は何もできない」「どうせ何をやっても上手くいかない落ちこぼれだ」という考えが、私を無力感でいっぱいにしていたことだった。

その感情は、振り返ってみると少しずつ強くなっていったように思う。

子供から大人へと成長していく中で、社会の枠組みや他人の期待がどんどんプレッシャーに変わり、無意識に自分に焦りを感じ始めた。

周りの目が、時には自分を追い込むような形になり、「早く大人になって社会に出て通用する人にならなければ」と、その焦りが次第に積もっていった。

その焦りは、次第に「みんなが普通にできることが自分にはできない」という考えに姿を変え、無力感とともに自分を苦しめていった。

この考え方がどんどん強くなり、私はますます自分を否定していった。

「普通」に縛られる生きづらさ

思い返せば、この考え方は、子供時代に抱いていた「だいたいのことは普通か、それ以上にできる」という自信が徐々に変化していったものだった。

周りと比べることが増え、他人の目が気になるようになるにつれ、自分の価値や能力を疑い始め、いつの間にか「普通よりもできない自分」がとても大きな壁に感じられるようになっていた。

その「普通」という感覚が、私の頭の中では「みんなができること」「当たり前のこと」と結びついていた。

しかし、少し考えてみると、この「普通にできること」というのは、おそらく平均値や最頻値を指しているのだと思った。

それが何を意味するかというと、社会で大多数の人ができること、あるいは他の人が苦もなくこなすことが「普通」とされ、そこに自分が入っていけないと感じることが苦しさの原因だったのだ。


私の中で「普通にできる」という基準が、社会全体で当たり前のように思い込まされ、気づけば「それができない自分は少数派」であり、まるで「自分は落ちこぼれだ」という思い込みが強くなっていった。

そうなると、自分は肩身の狭い思いをしているように感じ、少しでもその「普通」を外れると、居場所を失ったように感じてしまう。

しかし、この「普通」に対する自分の認識が少しずつ変わり始めた。

ふと気づいたのは、世間で言う「普通」というのは、実際には多くの人ができること、つまり「平均的な」ことや「最頻値」に過ぎないということだった。

しかし、私はその「普通」があたかも全員ができて当たり前のことで、自分みたいな人はいない、という思い込みをしていた。しかし、それが必ずしも正しいわけではないと気づいたとき、少し心が軽くなった。

つまり、「普通」に合わせなければならないというプレッシャーは、実はただの「社会的な価値観」の一部であり、それに縛られる必要はないのではないかと考えるようになった。

現代社会の価値観は、長い歴史を経て形成されてきたものだが、それが全員に当てはまるわけではない。

私が感じていた焦りや苦しさは、この「普通」を無理に自分に押し付けていたことが原因だったのだ。

価値観の歴史と現代の多様性

そして、ふと「現代の価値観」について考えてみると、その背景には長い歴史があることに気づいた。

社会は、過去の価値観や伝統から発展してきたもので、特に男女の役割や社会の仕組みも時代ごとに作り上げられてきたものだろう。

現代において「個性」や「多様性」が重要視されるようになったが、この価値観ができるまでを振り返ると、どうしても

「長い男性社会 → 女性の進出 → 性差別問題 → 個性・多様性の強調」

という流れがあったように思える。

そして、個性や多様性が強調される一方で、実際に注目されるのはどうしても声が大きく発信力のある人々であり、少数派はどうしても埋もれてしまう。

この現実に気づいたとき、ふと思ったのは、女性に関する価値観も社会に進出し声を上げた人々の考えが反映されてきた結果であり、その一部に過ぎないということだ。

少数派の意見や考え方が、十分に反映されているとは限らない。

さらに考えてみると、新しい価値観に合う人もいれば、昔からの価値観を大切にする人もいる。

そして、もっと新しい価値観を持った人もいるだろう。

これこそが本当の「個性」や「多様性」ではないかと思った。

つまり、個性や多様性といわれているが、実際には大多数の「普通」に合わせることが求められる場面が多い。

そして、私はその「普通」に無理に合わせようとして苦しんでいたのだ。

自分に合った価値観を見つける

この気づきから、「私に合う価値観がどこかにあるはずだ、いや、もしそれが見つからないなら、それは私だけの独自の価値観であり、それこそが私の個性だ。

そして、その個性を認める社会こそが、真の多様性を実現した社会ではないか」と思うことができた。

価値観は、自分に合うものを選んでいいのだと気づいたとき、私の気持ちは少しずつ軽くなり、自分に自信を取り戻すことができた。

私がたどり着いた答え(まとめ)

今回はなんとなくモヤモヤしたことから、自分のゆがんだ価値観に気づき心が軽くなった考え方にたどり着くまでを綴ってみました。

もやっとしたこともきちんと振り返ることで、自分なりの答えを見つけられることがあるんだなと改めて感じました。

そして、その答えを忘れないためにも文章にして残すことって大切だなと思いました。

さらに、この体験が少数派の誰かのためになる記事になれていたらうれしいです。

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